ありふれた幸せが周りにちょうどなかったよね

特に書き記したい日常はない。
新しいこととしてはnoteを始めたくらい。
まあ、まだ上手く機能してるとは思えないけど。

怖い話が好きだ。
いわゆる実話怪談というやつ。
ホラー小説は普通くらい。
昔はオカ板みたいのも好きだったけど、あれもフォーマット的にはラノベに近いホラー小説なので構造がわかると飽きてしまう。
私は脈絡とか筋道みたいのがはっきりしてると「怖い」と思う機能が停止する。
それは怖くて思考が停止するという意味じゃ無く、ああ、そういう因果や条理なのねって思って白けてしまう。
そこに狂気や不条理があってどんなに胸糞なバッドエンドでもそれはやっぱり物語でしかないから。
つまり結末があることに飽きてしまうのだと思う。
いくら物語の中で「恐怖は伝搬し増殖する」みたいな終わらないエンドにしたところで物語上は終わりを迎える。
当たり前のことだ。
その点、実話怪談には伝家の宝刀「実際にあったことなので」と言ってしまえば嘘も方便で言い訳が立つ。
そこに脈絡や因果関係や結末や動機や人を納得させることが無くてもギリギリ成立してしまうイカサマのようなものがあって私はそういうものの方が「怖い話」として好きだし、そういうフォーマットはたぶん実話怪談でしか成立しない、成立しないというと語弊があるかもしれないけど少なくとも実話怪談でしか味わえないような気がする。

私は怖いってことに興味があって、私の思う怖さには考察が必要ないし、考察というものが成り立たないからそれが怖さにスライドしてく感覚があって、それを楽しみたい。
でも、世の中的には考察が大好きだし、脈絡がないと怒り出す人さえいる。
よくわからん。
そんなの分かったら怖くないし詰まらないじゃんと私は思うのだけれど、恐怖やホラーをそういうものとして楽しみたい人の方が多いのも根本的には理解できる。それは好き嫌いの話として。
謎解きが好きだったりサプライズが怖かったりするパターンのエンタメが成立するのはその為だろう。
私はお化け屋敷が嫌い。
これもそういったことに起因するのだと思う。

だから私は色んな人に「あなたにとって怖いって何ですか?」と常に訊きたい気持ちがあるし、そういうことを話せるような場所があればいいのになと思っている。

でも、考察とかディベートがしたいわけじゃない。ただただ人の思う、考える「怖い」って何かを知りたい。

私は今のところ誰にも理解されたことないけど心霊とか人怖とかホラーに関係なく視覚や感覚的なモノとしてカピバラがとにかく怖いです。
なので、そういった人怖や心霊じゃなくてもいいです。
もしかしたらそれは苦手ってことにも置き換えられてしまう部分も含まれるかも知れないし恐怖症の類(高いとことか狭いとことか集合体とか)の可能性もあるけど、
とにかく、
ねえ、

「あなたにとって怖いって何ですか?」

 

[本]『怪談聖 おどろかいわ』糸柳寿昭

その部分だけを刳り貫いてコトリと部屋に静かに置かれたものが急にけたたましく騒ぎ出したようにゾワリとする。話してる生っぽさもあるし読んでる間はちょっと良く分からないんだけど?と思うもののついつい聞き耳をそばだててしまうような奇妙な話(というか会話)がたくさん読めてお買い得。

僕は息苦しくても まだこんなに走れます

ある朝、気掛かりな夢から目醒めた時、全体の意思が大きな無視に変わってしまっているのに気が付くかもしれない。
可/不可を侵犯して審判したが誰からも返信はなく変身もまた偽の領域で名を持つことだろう。

洗濯物の白いシャツがベランダで揺れている。中には誰もいない。時折、風が入り込み膨らんだり不在を証明したりする。

部屋には私と悪い予感だけが居座っている。

言葉の解像度を落としてゆきたいと考える。イメージは定着してしまったらそれ以上の破壊はできない。階段のイメージはどんなに壊しても階段のままだ。現実の階段は壊せる、これでもかと破壊し尽くして破片や粉や灰にまで粉砕できるだろう。言葉も同じで、「か」と「い」と「だ」と「ん」に分解できる。分解のち組み立てで階段を踏み外して怪談と建て替えることさえ可能だ。文章もきっとそうだろう。そうやってどんどん解像度を落として省略して何も言ってないのに何か言っているような気がする思わせぶりな文章がいい。どこまで解像度を落とせるかが自分の中の課題になっている。

現実の現象を減少させ、幻想を減算方式で立ち上らせる。気配のみある文章。サウイフモノニ ワタシハ  ナリタイ。サウ言うものに私はなりたいのだ。SAY! サウ! だ!

自動販売機で缶コーヒーを買って定温の缶にも季節で温度の感じ方が変わるように、指先で識ってゆく記憶もある。その指先だけが知っている言葉をただ打ち出すだけの文字列だけれど、それには自分だけしか打てない記憶があるのだろうと信じている。物語でも小説でもない、その中にだけ、自分が《生きている》言語があると願ったっていいだろう、たまには。

きっと、この中にだって空欄を埋められない穴のように、何も無さだけが満たしてゆく空欄がある。私の不在。私の気配。気配だけがある文章。本当は何もないのだけれども。

おにぎりを食べたいと思って買って来たコンビニの袋を開ける。白いレジ袋の中にはサンドウィッチ。食べたいものを裏切る私もまた私。
サンドウィッチをむしゃむしゃと頬張りながら、思う、ままならない。

『いつか』とか『その内』とか『これから』とか、その先で何か素敵な出来事が待ち受けてるみたいなことを顔見知りぐらいの人から言われると未来に暗い翳りが生まれたような気分になる。たぶん自分の打ち所が悪いんだろうけど。

相互は呪詛だし、運命は常套だし、偶然は偽装だし、思い込みと演出効果でしかない。結局は予定調和でしかない進歩と調和であり、その歩合制。

人を貶めたいわけじゃないし、自分を蔑みたいわけでもない。

毎日、クジ引きをしているような気分でいる。「生きる」か「死ぬ」って書かれただけのクジ引き。いつも決まって当たり前のアタリのように「生きる」を引き続けているけれど、たぶん等賞とか関係なく引くことが通例化してしまっている。その内にクジを引くこと自体に疑問を持つのかもしれない。引いた結果ではなく引く原因に詰まったら、きっとそれが「死ぬ」って書かれたクジなんだろうと思う。

それでも、今日は、綺麗で可愛い七夕みたいな和菓子を食べたから、それだけで生きている価値にはなるし、生きて行く理由にはなった。

天の川の砂鉄でできた砂時計で魔法のような時間を刻みたい。

今日は日記だけを書きました。
noteに登録をしたので後でnoteも書くかもしれない。

さよならの言葉は あと何回残っているのだろう

気が付けばあっという間に2023年も半分が終わって七月になり下半期だという。
三月から体調を崩したのもあって感覚的には三ヶ月くらいしかないし実質的にも三ヶ月くらいしか機能していない。
三月の蜃気楼の中を彷徨い続けているまま夏も本番だとか言われてる始末。

特に書くことはない。
リハビリしたり通院して治療したりそういう毎日。
毎日。
何も無かったことを何も無かったと書くのもいいのかも知れないけど半分以上が泥に沈んでる脳がそれを許さない。
強く握った手を開いて何も無かったことを見せびらかすのに抵抗がある。
タネも仕掛けも無い代わりに手品でも何でも無い日々を。

自分の中で変わらないと思っていた気持ちが確実に変わってしまってることに気付いて愕然とする。
ニュアンスが難しいけどそれまでの気持ちは何も変わらないのにこれからの気持ちが完全に変わってしまっている。
凄く簡単な例で言えば、今までこれ以上ないと思ったほど好きだった人の文章を読んでも何も感じなくなったみたいなこと。
それまでに読んできた言葉の鮮やかさは美しいままなのに新しい言葉が何も響いてこない。
大好きなバンドの新譜が悪くないのに良く思えない、大好きな作家の作品に心躍らない、新連載が嬉しくない、そういうの。
それまでの作品を聞き返したり読み返しても好きなままで変わらないし、その本人たちの意思とか態度とか作風だって取り立てて何も変わってないのに、私の気持ちだけが変化してしまった、不変でも普遍でもなかった時の孤独以上の寂しさがあって、未来に気持ちが持ち越せなかった自分の何が変わってしまったのかも分からないのに何かは確実に変わってしまったことだけは完璧にわかる、そういう気持ちになる出来事が去年あたりから続いていてここ最近で極まった感がある。

何かを新しくするのに旧いものを切り捨てる必要はないのに新しいものを持とうとすると旧いものを切り捨てないと持ち切れない。
キャパシティが極狭だから。
そのことに気付かずたくさん取り零して来たけど、持てるものの範囲を把握する努力をしていかないといけないような気がする。
かといって新しく持ったものが自分にとって良いものではなかった時に新しいものも持たないけど旧いものも捨てて、手には何も残らなかったみたいなのもバカらしいよね。

自分には言葉がある。
言葉で出来ることは何もないとは分かってるし、言葉でしたいこと、例えば詩とか短歌とか表現も自分に向いてるとは思わないけど、自分には合ってるように思う。
だから最近はもう少しちゃんと言葉で何かしてみたい気持ちが膨らみつつある。
大嫌いなnoteでもやろうかな。

七月は七夕。
特に何をするわけでもないけど年中行事の中で七夕は割とトップクラスに好きだ。
願いを願うのっていいよね。
言葉にしてみなきゃ分からないことだってあるじゃん、他人にも、自分にも。

もうちょっと欲張って上を向いて星ばかり見てたってバチは当たらないはずだ。

枯れない花が枯れるのを願って枯れるのを待ち望む。
枯れることを見届けることでこの瞬間が永遠じゃないと思い知りたいみたいな不健全な生き方は今はそんな気分じゃない。

今はピスタチオ&ラズベリー味のアイスを食って「おいしい〜」と思ってる、それが全てだよ。

 

[本]『オールアラウンドユー』木下龍也

花瓶に一輪の花を活けるように生ける私たちがそれぞれであること。それは点に措ける孤独ではなく色彩を生むためのドットであるということ。一輪の花が添えられるように一首が立ち並ぶページは紙の斤量より膨らみがあるような気がして少しだけ日常を豊かに彩ってくれる。

ページからこぼれる文字をひとつずつ拾うみたいに話してしまう

神さまを殺してぼくの神さまにどうかあなたがなってください

あの世でも死にたかったらどうしよう 太ってほしいひとのいた夏

 

私以上の孤独は この世にないって解った

大して書くことはない。
毎日、リハビリを頑張っている、毎日。
今日は雨なのと寒いのとで無理をして外を歩いたりまた熱が上がったりして体調を崩したくはないので家の中を少し歩くくらいしかしていない。
休みの日曜日。
日曜日らしい休みを休んでいる。

いくら書くことがないとはいえ気がつくとブログも書かずに二週間くらい平気で経ってるのは流石に良くない気がする。
時間感覚的によろしくない。

BOØWYを聞いている。
今更伝説のバンドを聞く俄かに言えることなど何もないけど歌詞の音にめちゃくちゃ憧れる。メロディということじゃなくて韻律とかイントネーション的なこと。
カタカナが多いというのもあるけど日本語として聞こえる割りに何を言ってるのかわからない。
いや、わからないというのは語弊があるけど、歌詞として詞を文字で読むのとは明らかに違う気持ち良さがあって、音の響き方が異常に軽やかなのだ。
私はそういう音やイントネーションの気持ち良さを文字に置き換えて眼でそういう気持ち良さを楽しめないだろうかと思いながら書いてる部分があるのでBOØWYの詞と旋律の幸福な結婚みたいなものにとても憧れを持っている。
意味があるのに意味を剥ぎ取れる感じが凄い。
ペダンチックとかブッキッシュ的な意味合いじゃなくてもっと軽やかで湿り気がないのが素晴らしい。
自分が脳内で再生してるイントネーションで見てる人が読んでくれるわけじゃないから自分が思う軽やかさでそのまま自由に遊んでるように読まれる文章を書きたいと思っている。
日記は伝える必要があるので最低限のコミュニケーションを成立させる必要があるけどTwitterはもっと意味から解き放てるはずだと思っている。

最近はアイドルに興味がある。
このところ好きになった棘-おどろ-についてはツイッターで書いたりしてるのでそれはさて置きちょっと気になったことを書いておきます。
それは、アイドルソングにギターソロや間奏は必要なのかということです。
もちろん間奏の間のフォーメーションやパフォーマンスを楽しむとか喉を休ませるとか用途はあるのだろうけど、曲だけを聞いていると派手なギターソロだったりThe 間奏みたいなものが曲構成的にそこまで必要な意味がよくわからないと思う部分がある。
バンドでもソロは何でギターだけなんだと思うし、曲によってはドラムやベースソロのあるものもあるけどでもギターソロが殆どで、でもまあそれはそれでバンドの役割だし今疑問に思ってるものとは本質が違うのでそこは百歩譲って考えるとして、じゃあアイドルソングで目立つギターソロやThe 間奏がある理由って何なのだろうと思ったのです。
バンドじゃないのにそういうロック幻想みたいな曲構成である必要性が良くわからなくてそういう曲構成の定型がアイドルの楽曲でも定型になってるのがとても不思議。
私はアイドルに詳しくないしK-POPに詳しい訳でもないので良くわからないけど私が聞いてる範囲の例えばRed VelvetとかNewJeansではそういう派手なギターソロだったり目立って耳に残るThe 間奏めいたものは無いように思えるので、この曲構成がK-POP独特のものなのか日本の保守性なのかは分からないけど、アイドルが細分化し色んなスタンスのグループが犇めき合ってるのならもっと曲構成もアップデートされてもいいんじゃないのかなと思ったのです。
別にK-POPみたいな曲を作れと言ってるのではなく曲構成にももっと自由度があってもいいのかなと。
所謂そういう定型じゃ無いグループもたくさんいるしそういう楽曲もいっぱいあるよと言われれば本当に最近になって聞き出した私の知識不足としか言いようがないけど、ちょっと気になったことなので書いておきました。
アイドル好きな人はどう思ってるのか訊いてみたいな。

ヴィジュアル系みたいな女性アイドルを探そうという自分内サーチは一先ず置いとくとしてメンヘラというキーワードやじゃあ男性地下アイドルはどうなってるんだとかまたまた色々な疑問が湧いてきたのでそれはそれでまだまだ調べたい。

あと音楽のことでまだ何か書きたいことが他にもあったような気がしたけど忘れた。

 

[漫画]『カナカナ』5巻 西森博之

最高。他に特筆すべきことは何も思いつかないけど相変わらず最高。次巻もそうっぽいけど英子の大活躍と大躍進が素晴らしい。

ありがとうを忘れた子は一人では生きられません

ありがとうを思い出すまで幸せは来ない

 

今日から五月。

眠い。とっても眠い。異様に眠い。夢の中でも眠い。
もしかしたらこれも夢の中の出来事かもしれない。

書きたいことが幾つかあるけど体力がない。

アイドルに興味があって最近はアイドルについて調べたりしてるけど書くと長くなりそうなので体力的に今日は無理だなと思う。

自分的には仲直りしたかったけど相手に全くその意思がないので諦めるということが年末年始くらいにあった。
その人の書く文章がとても好きだったので今でも読みたいと思うのだけれどストーカーには成り下りたくないので読まない。
だから今は何をしてるのか元気なのか今でも文章を書いてたりするのか知らない。
そういうことが増えていくのが生きていくってことなのかもね。
忘れられないんだろうけど思い出さないみたいな感傷。

ドラマを少し観た。
ラストマンー全盲の捜査官ー』とか『合理的にあり得ない ~探偵・上水流涼子の解明』とか。
どっちも悪くないので時間と体力が許す限りは観たいと思う。

アニメは観たはずだけどよく覚えてない。
スキップとローファー』が良かったので漫画も取り敢えず4巻まで買ってみた。
あとはなんだろ、思い出したら何か書くかも。

漫画も何冊か買ってあるので近いうちに読みたい。

 

[本]『かわいそ笑』梨

上手いなと思うけど上手いな以外の印象がないかな私には。演出とか構成とか情報の出し方とか伏線の張り方と回収と投げっぱなしにする部分のバランスも。ただその上手さは自分が思う恐怖とか自分が求めるホラー観とは余り結びつかない。上手いですねとは思うけど。実話怪談にリアルさとか私は全く求めないんだけど、ここまで上手く構成されてしまうとフェイクドキュメンタリーというかルポルタージュ的な手法のフェイクさが目立って普通にフィクショナルなホラー小説でしかなくなってしまうのは勿体無いというか物足りない。でも今のニーズには凄く合ってるとは思う。一文だけ取り出すと意味不明なことが書いてあるように見えても因果関係とか原因と結果のような理屈が見えてしまうと私は冷めてしまうのだけれどホラー映画の感想なんかを読んでても思うけど今の人たちはこういう考察できる余地のあるものを好むので、そういう意味でも戦略的で上手いなと思う。私にはその上手さが余計だと感じてしまうだけで、それはただ単に好みの問題でホラーに何を求めてるのかということなんだと思う。私は意味不明なことが意味不明なまま投げ出して合って考察や理解が及ばない因果の埒外にあるようなものを好むので。時代設定こそインターネットというかSNS黎明期みたいな感じだけどホラーの時代性や流行りにおいて「いま ここ」な空気感を肌感で感じるのにはうってつけの作品だと思う。

 

[本]『紗央里ちゃんの家』矢部嵩

前述の『かわいそ笑』とは打って変わって下手。下手というと語弊があるけど物凄く良い意味でどうでもいい。もはや無敵さすら感じるどうでもいいことに支配されている。作られた狂気とか頭がおかしいみたいなのって「どうだ頭オカシイだろ」ってこれ見よがし感があったり私は冷めちゃうことが多いんだけど、これは本当にそれ以外の部分がびっくりするほどどうでもいいことで出来上がっていてどうでもいいことにどうでもいいことが積み重なって徹頭徹尾どうでもいいことしかなくてもうホント完璧にどうでもよくて凄い。どうでもいいということが本当に本気でどうでもよくて良かった。ホラーとして怖いかと言われれば「全然怖くは無い」と答えるけど、でもこういう理屈も通用しない考察すらどうでもいい波で押し流してしまえるどうでもいい作品は凡百のホラーよりよっぽどホラーしてて私は好きです。それすらもどうでもいいし、どうでもいいって無敵すぎる。

だから手に触れて 掴んでよ ぼくをなき者にしないでよ

ぼくはまだここにいるんだよ
忘れないで お願い お願い

4月29日。
屍肉の日です。
ネクロマンティック・カニバリズムですね。
日本中で屍肉を食らうイベントやフェスが開催されていることでしょう。
カニバリズムにも屍肉派とか生きたまま食べる踊り食い派とか生食派とか調理派とかいるんですかね。

世間的にはGW初日なのでしょうね。
病み上がりというか微妙に現在進行形で休んでる私にはあまり関係のない話ですけど…

3月のお話です。
3月9日ですかね。
何か熱っぽいなと思っていたその日の夜39度6分まで一気に熱が上がった。
でもまだこの時は風邪だろうし2〜3日寝てれば治るだろうと軽く考えていました。
ところが5日経っても一向に熱が下がらずここにきて流石に変だなと思い病院へ。
結果から言うと良く分かりませんでした。
今だに良く分かりません。
題名のない体調不良です。
肺が炎症を起こしてると言われ、白血球が異常増加してると言われ、点滴を打つのに失敗した注射ミスの小さな注射跡から血が溢れて止まらなくなり意識を保つのが困難な状態に。
後で兄から聞いた話ですが、この時には家族は呼び出され「抗生物質も何も受け付けなく、やれることはやりましたが後は経過観察くらいしか当病院としては出来ることがありません。覚悟だけはしておいてください」みたいなことを宣告されていたらしい。
そんなこととは露知らずではあったものの私は私で「死ぬかもしれない。死ぬのかな。死んじゃうんだろうな」と思っていた。
まあ、かろうじて死にはしなかったもののずっとベッドの上での寝たきり生活が始まりました。

3月中はずっと低くても8度台をキープし、とにかく怠くて、歩くのに失敗しよろけて転び靭帯を損傷し、そして本格的に歩行困難になり、家に戻ってからものたうち回ったり這いずり回ったりする日々でした。
足を使わない日々が続いたのもあり体力はめっきり減り靭帯は何故か治らず足をついて歩けない状態が一ヶ月以上も続きました。
4月に入ってからは熱は微熱になり肺の炎症も白血球の数も通常通りになりましたが歩けず仕舞いです。
靭帯ってこんなにも治らないものなのというくらい治りません。
でもスポーツ選手が靭帯の損傷で引退するようなニュースを見かけたことがあるような気がしているので靭帯の損傷とはそういうものなのかもしれませんがよくわかりません。
なので最近はリハビリの毎日です。
無理をすると熱も上がってしまうので自分に出来る範囲で出来ることをしています。

ロキソニンテープとテーピングでグルグル巻きにしサポーターでガッチガチに固めて杖をついて歩行練習をしています。
杖生活になって改めてこの世の不便さに驚いています。
今も頑張っています。
ゴールデンウィークまでには治したかったのですが無理でした。
焦らずやっていこうと思っています。

これがこの二ヶ月くらいで私の身に起こっていたことです。

アニメやドラマを見たり、昨日買った漫画もまだ読めていませんが読んだら、その辺の見たり読んだものの感想も書いて、日常を回復していきたいです。

希死念慮も相変わらずで死にたい気持ちも変わらないけど、私は我儘なので病気とか自分が望まない不可抗力で理不尽な死には抗いたいと天邪鬼な私は思うのです。
死ぬなら自分の死を死にたいので。

みなさまも風邪だからと甘くみないで素人判断をせず健康には気をつけて生きてくださいね。
みなさまの無事を祈っています。

 

[音楽]『δυσ-τόπος ~Dystopia~』アルルカン

私はアルルカンが好きという前提で、もっというなら私はアルルカンが好きだからこそという前提でお読みください。一個人の雑感です。私は前作『MONSTER』を最高傑作だと思っていてそこからシングル『PICTURES』までの流れに本当に感動したのです。だから期待をしていました、きっと次の作品は物凄いことになるに違いないと。例えそれが自分の好きなアルルカンとは違って前向きで私を置き去りにして進んでしまうとしても『PICTURES』で一歩踏み出し踏み越え踏み抜いた未だ見たことのない地平を見せてくれると信じて。でも蓋を開けるといつも通りのカッコいいアルバムでした。カッコいいならそれで良いじゃないかと思わないでもないけどいつも通りじゃ物足りないんだよ。本当に手放して一じゃなく元の位置のゼロ地点に戻っちゃったの? と思わずにいられなかった。それって言葉を選ばず悪い変換をするのなら停滞って言うんじゃないのかな。いや、カッコいいんだけどさ、カッコいいんだけどね、カッコいいからこそ、何かね。これは私の勝手な期待で、幻滅も失望もないし、これからも聞いていくんだろうけど、モヤモヤしたものが心に残って素直に絶賛できない印象だった。

ミンナチガッテミンナダメ。

変な忙しさに追われている。
やりたいことよりやりたくないことを優先してスケジュールを組まないといけないのはとてもじゃないが健全とは言えない。
心が病めば言葉も病む。
病む病むウマイとか言ってらんない。

恨み言をなるべくなら言いたく無い。
言霊ってのは本当に在るし、人を呪わば穴二つではないが誰かを呪うような言葉はそのまま自分を縛る呪いにもなる。
あと単純にコスパというかエネルギー効率が悪い。
怒りとか恨みとかそんなことにエネルギーを使いたく無い。
だって疲れるだけだから。

書きたいことが一昨日くらいにはあった気がするけど忘れてしまった。

作りたいプレイリストもあるし、返したいDMもあるのに自分のメモリ不足で読み込みエラーばかり起こる。
早くこの忙しさから抜けたい。
「忙しい」を言い訳にする人をずっとダサいと思ってるから今の私は本当にダサいと思うけど忙しくて厭だな。
自分含めて「忙しい」って言い訳する人、嫌いです。

 

[漫画]『海が走るエンドロール』4巻 たらちねジョン

グツグツと煮え滾るものがあってグラグラと揺れ続けるものが心を安定させない。安定しないアンバランスさの中に人が生きる輝きが見え隠れする。エンドロールが未完の自主映画とかならやめてほしい。しんどい。