さよならの言葉は あと何回残っているのだろう

気が付けばあっという間に2023年も半分が終わって七月になり下半期だという。
三月から体調を崩したのもあって感覚的には三ヶ月くらいしかないし実質的にも三ヶ月くらいしか機能していない。
三月の蜃気楼の中を彷徨い続けているまま夏も本番だとか言われてる始末。

特に書くことはない。
リハビリしたり通院して治療したりそういう毎日。
毎日。
何も無かったことを何も無かったと書くのもいいのかも知れないけど半分以上が泥に沈んでる脳がそれを許さない。
強く握った手を開いて何も無かったことを見せびらかすのに抵抗がある。
タネも仕掛けも無い代わりに手品でも何でも無い日々を。

自分の中で変わらないと思っていた気持ちが確実に変わってしまってることに気付いて愕然とする。
ニュアンスが難しいけどそれまでの気持ちは何も変わらないのにこれからの気持ちが完全に変わってしまっている。
凄く簡単な例で言えば、今までこれ以上ないと思ったほど好きだった人の文章を読んでも何も感じなくなったみたいなこと。
それまでに読んできた言葉の鮮やかさは美しいままなのに新しい言葉が何も響いてこない。
大好きなバンドの新譜が悪くないのに良く思えない、大好きな作家の作品に心躍らない、新連載が嬉しくない、そういうの。
それまでの作品を聞き返したり読み返しても好きなままで変わらないし、その本人たちの意思とか態度とか作風だって取り立てて何も変わってないのに、私の気持ちだけが変化してしまった、不変でも普遍でもなかった時の孤独以上の寂しさがあって、未来に気持ちが持ち越せなかった自分の何が変わってしまったのかも分からないのに何かは確実に変わってしまったことだけは完璧にわかる、そういう気持ちになる出来事が去年あたりから続いていてここ最近で極まった感がある。

何かを新しくするのに旧いものを切り捨てる必要はないのに新しいものを持とうとすると旧いものを切り捨てないと持ち切れない。
キャパシティが極狭だから。
そのことに気付かずたくさん取り零して来たけど、持てるものの範囲を把握する努力をしていかないといけないような気がする。
かといって新しく持ったものが自分にとって良いものではなかった時に新しいものも持たないけど旧いものも捨てて、手には何も残らなかったみたいなのもバカらしいよね。

自分には言葉がある。
言葉で出来ることは何もないとは分かってるし、言葉でしたいこと、例えば詩とか短歌とか表現も自分に向いてるとは思わないけど、自分には合ってるように思う。
だから最近はもう少しちゃんと言葉で何かしてみたい気持ちが膨らみつつある。
大嫌いなnoteでもやろうかな。

七月は七夕。
特に何をするわけでもないけど年中行事の中で七夕は割とトップクラスに好きだ。
願いを願うのっていいよね。
言葉にしてみなきゃ分からないことだってあるじゃん、他人にも、自分にも。

もうちょっと欲張って上を向いて星ばかり見てたってバチは当たらないはずだ。

枯れない花が枯れるのを願って枯れるのを待ち望む。
枯れることを見届けることでこの瞬間が永遠じゃないと思い知りたいみたいな不健全な生き方は今はそんな気分じゃない。

今はピスタチオ&ラズベリー味のアイスを食って「おいしい〜」と思ってる、それが全てだよ。

 

[本]『オールアラウンドユー』木下龍也

花瓶に一輪の花を活けるように生ける私たちがそれぞれであること。それは点に措ける孤独ではなく色彩を生むためのドットであるということ。一輪の花が添えられるように一首が立ち並ぶページは紙の斤量より膨らみがあるような気がして少しだけ日常を豊かに彩ってくれる。

ページからこぼれる文字をひとつずつ拾うみたいに話してしまう

神さまを殺してぼくの神さまにどうかあなたがなってください

あの世でも死にたかったらどうしよう 太ってほしいひとのいた夏