僕は息苦しくても まだこんなに走れます

ある朝、気掛かりな夢から目醒めた時、全体の意思が大きな無視に変わってしまっているのに気が付くかもしれない。
可/不可を侵犯して審判したが誰からも返信はなく変身もまた偽の領域で名を持つことだろう。

洗濯物の白いシャツがベランダで揺れている。中には誰もいない。時折、風が入り込み膨らんだり不在を証明したりする。

部屋には私と悪い予感だけが居座っている。

言葉の解像度を落としてゆきたいと考える。イメージは定着してしまったらそれ以上の破壊はできない。階段のイメージはどんなに壊しても階段のままだ。現実の階段は壊せる、これでもかと破壊し尽くして破片や粉や灰にまで粉砕できるだろう。言葉も同じで、「か」と「い」と「だ」と「ん」に分解できる。分解のち組み立てで階段を踏み外して怪談と建て替えることさえ可能だ。文章もきっとそうだろう。そうやってどんどん解像度を落として省略して何も言ってないのに何か言っているような気がする思わせぶりな文章がいい。どこまで解像度を落とせるかが自分の中の課題になっている。

現実の現象を減少させ、幻想を減算方式で立ち上らせる。気配のみある文章。サウイフモノニ ワタシハ  ナリタイ。サウ言うものに私はなりたいのだ。SAY! サウ! だ!

自動販売機で缶コーヒーを買って定温の缶にも季節で温度の感じ方が変わるように、指先で識ってゆく記憶もある。その指先だけが知っている言葉をただ打ち出すだけの文字列だけれど、それには自分だけしか打てない記憶があるのだろうと信じている。物語でも小説でもない、その中にだけ、自分が《生きている》言語があると願ったっていいだろう、たまには。

きっと、この中にだって空欄を埋められない穴のように、何も無さだけが満たしてゆく空欄がある。私の不在。私の気配。気配だけがある文章。本当は何もないのだけれども。

おにぎりを食べたいと思って買って来たコンビニの袋を開ける。白いレジ袋の中にはサンドウィッチ。食べたいものを裏切る私もまた私。
サンドウィッチをむしゃむしゃと頬張りながら、思う、ままならない。

『いつか』とか『その内』とか『これから』とか、その先で何か素敵な出来事が待ち受けてるみたいなことを顔見知りぐらいの人から言われると未来に暗い翳りが生まれたような気分になる。たぶん自分の打ち所が悪いんだろうけど。

相互は呪詛だし、運命は常套だし、偶然は偽装だし、思い込みと演出効果でしかない。結局は予定調和でしかない進歩と調和であり、その歩合制。

人を貶めたいわけじゃないし、自分を蔑みたいわけでもない。

毎日、クジ引きをしているような気分でいる。「生きる」か「死ぬ」って書かれただけのクジ引き。いつも決まって当たり前のアタリのように「生きる」を引き続けているけれど、たぶん等賞とか関係なく引くことが通例化してしまっている。その内にクジを引くこと自体に疑問を持つのかもしれない。引いた結果ではなく引く原因に詰まったら、きっとそれが「死ぬ」って書かれたクジなんだろうと思う。

それでも、今日は、綺麗で可愛い七夕みたいな和菓子を食べたから、それだけで生きている価値にはなるし、生きて行く理由にはなった。

天の川の砂鉄でできた砂時計で魔法のような時間を刻みたい。

今日は日記だけを書きました。
noteに登録をしたので後でnoteも書くかもしれない。