心の中身を少しだけ捨てた

今日は祝日。
特に予定は無かったので少しのんびりして夕方くらいにブログでも書こうと思っていたのだけれど、このあと急遽出掛けないといけなくなってしまったのでコンパクトな日記を。

自分の為の90年代ヴィジュアル系プレイリストを作った。

music.apple.com

細かいことやヴィジュアル系に関する私見はまた時間のある時にでも書きたいので今日は省きますしこの時代のインディーズはサブスクになってないものが多いので暫定的なサブスク盤みたいなプレイリストです。
私のアカウント自体は鍵が掛かってますがApple Musicさえ使っていれば公開プレイリストはフォローしてなくても聞けるはずなので興味のある人はリンクを辿ってみてください。
そんな奇特な人もいないとは思いますがもしフォローしたいという方もいらっしゃいましたら仰ってくださればフォローしますので一声かけてください。

当たり前にしたくなかったことが当たり前になっていくのがとても苦しいし怖い。その人がいないという生活が本当に当たり前のことになっていく。
例えばいつも読んだり見たりしてたSNSを見なくなる。そして、それが日常化し、いつの間にか知らなかった、居なかった頃の状態に戻っていく。
そういう感じの。
インターネットの糸は兎角切れやすい。
そしてそれが当たり前のことだということを当たり前に忘れている。
他人の距離感が分からない。
踏み込む/踏み込まないって何だろう。
人が苦しんでる時は理屈をつけて簡単に見捨てるのに自分の不都合は相手が苦しんでる時でも構わず責め立てる。
そういう時だけ連絡してくる。
そういうのにいつまでたっても慣れない。
自分を正当化する気は無いけど相手の正当性も正直に言えば認められない。

でも、段々それもどうでも良くなる。
大切なものが大切すぎて大切の仕方が分からない。
そして見失って、間違える。
もう誰もいない。

きっとこの先もまた起こり得ることだろう。
今、仲良くしてくださってる人たちのこと大切に思っているけど、大切だからってなくならないとは限らない。
それでも、その中で共に居られる時間をなるべく見失わないようにしていたい。
とても簡単に切れるインターネットの蜘蛛の糸をピアノ線くらいの細く美しい人も殺せるような強度まで研ぎ澄ませたいのだ私は。

 

[本]『砂丘律』千種創一

砂の味、空気の味、血がたまに交じる。人が生きてることの時間の蓄積と人が生きていたことの時間の体積。暑さと冷たさ、熱さと寒さ。たしかに中東の風が吹いている。

石段は湖底へと延びこれからするであろう悪いほうの祈り

今年最後のゆうだちと知らずに君が水槽ごしに眺めてた雨

紫陽花の こころにけもの道がありそこでいまだに君をみかける

ひとびとが溺れ死ぬ聖書のページ 手渡すお茶に氷はまわる

壜の塩、かつては海をやっていたこともわすれてきらきらである