失って気付くものは大切なものじゃなくて 優しい人 冷たい人 それがやたら定かになる

昨日は大雪。今も積もっていて白くていい感じ。
白々しい世界はいいよね。
しらじらしくて。
子供たちがはしゃいでいる声がする。
子供たちと言っているが、もちろん私の子供ではない。

何か書くといいと昔は思っていた。
それが頭や心を整理する切っ掛けになると。
でも今はどうだろう、書いて整理されるようなものもない気がする。

自分がしでかしたことの結果ではあるけど結果が自分のしでしかたことの大きさと比例していないと心は腐る。
腐った心はこの不合理を死ぬまで許せなくなってしまう。
被害者と加害者によって罪の意識や大きさや重さは違う。
私が思ってるよりきっと深刻なダメージだったのだろうとも思う。
でも、罪に対して罰が重いと感じさせるには充分すぎるほどの仕打ちだと私だって心があるのだから耐えられない。
甘んじて罰を受けよう……とはならないです。
自分を守ることとと他人を傷つけることは同義でも等号でもないのにそこを勘違いして自分を守るためだったら他人の気持ちを蔑ろにして傷付けてもいいと思ってる人が意外と多い。
被害と加害の逆転が起こってしまう。
それでも気が付かない。

無視は嫌い。
私は暴力を加えられるか、それ以外なら居ないものとして扱われることが多かったから無視をする側の人が嫌い。
人によって違うのだろうけど私は既読スルーは何とも思わないけど未読スルーは嫌い。
私は自分勝手なので少なくても自分が言いたいことは確認されたと思えるだけ既読はありがたい。それに対して反応がなくてもそれは私にとっては無視だとは感じないけど、未読は、お前は存在して居ない、見る価値もないと言われてる感じがするので本当に嫌い。
無視する側の論理も無視できる心理も私には永遠に理解できないし理解したいとも理解しようとも思わない。
嫌いだから。
返さない/返せない都合はわかる。見ることするしない事情はわからん。私には。

まあ、いいや。
嫌なことが心の貯金箱に貯まっている。
吐き出して散財しても何も変わらないけどたまには散財したい。
言葉として、言葉にして。

感想はツイッターに書いたので詳しく書かないけどタイトル忘れたくないので書いときます。
[テレビ]『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?』をちょっと前に見たんだけどめちゃくちゃ好みだった。
本筋はやりすぎなので最後の方は冷めてしまったけどそれ以外のシチュエーションもビデオ演出も物凄くよかった。気持ち悪さの丁度いいところを付いてる。不快と嫌悪の調合、不気味と好奇心の配合のバランスが頭おかしくて、これをテレビで放送したってところに意義を感じた。

もう直ぐバレンタインですね。
私は嗜好品に余り頓着がないんだけどチョコだけは高くても美味しいなら良いと思っている。
でも、今年はあげる予定がないしあげる気持ちもない。
いつもなら自分の為だけにも買ったりするのだけれど今年は気持ちが死んでいてデパートもネットも何もチェックしなかった。
寂しいような当たり前のような気持ち。

書こうとして書き散らかしたら書くことは割とあった。
もうちょっと書く頻度とバランスを考えたい。

 

[本]『Jason Fourthroom』舞城王太郎

Jason Fourthroom

Jason Fourthroom

Amazon

もう私はこういうものを「わからない」の一言で片付けられる立派な大人になりました。だから言う「わからない」と。書いてあることの良さも書いている意義もわからん。内容や意味が分からないのはいい、そういうのは自分の無知だったり気分だったりに起因するからそれは許容できるし、そういうものはそういうものだからそれはそれでいい。でも書いてる意義がわからないのはダメだ。それは無視と変わらない。私は無視をしたくない。でもこれは書いてる意義がわからん。無理やり見つけるなら作者自身に宛てた手紙なのかもしれないがそれは私にはわからん。自己完結を意義と取るなら、意義はあるのかもしれないし、それに称賛も賛同もする人たちはいるのだろうけど私はわからない。だから何もわからない。簡単に一言で簡潔に完結に言おう、わからない。